時代劇俳優たち・挿入歌アーティストの想い

田中壱征監督から『会津の映画、市川さんも役あるから』と言って頂き、まず出演させて頂く喜びと感謝の気持ちが溢れました。

『とても重要な役をやって頂きますよ』と言われ、 会津の勉強を始めたのですが、会津の事に詳しくなかった僕は、 その壮絶な歴史に愕然とし、兵士はもちろん、会津の皆様の悔しい思いが伝わってきました。 そして、僕の演じさせて頂く役が『最後の家老 萱野長修公』だと分かり、その責任の大きさに押し潰されそうになりました。 と同時にやらせて頂くご縁からやり遂げたいと気持ちが大きくなり、 仕事に都合を付け会津に飛び、史跡を巡り会津藩士の歴史を学び、 そして『萱野長修』さんのお墓を探し、山奥の誰も居ないお墓で雨の中『萱野様』にやらせて頂く感謝とご報告をさせて頂きました。

行ったのが撮影の前日で、 翌日にはまた同じ道を車で走り撮影に入っていったので、 会津藩士の皆さんの思い、『萱野長修』さんの気持ちが胸に熱いまま、撮影をすることが出来ました。 僕の撮影は、物静かで真面目な家老『萱野長修』様が最後に藩の責任を取り、新政府軍への悔しい思いを押し殺し忠誠を尽くし切腹するシーンでした。 繊細でデリケートな撮影となる為、田中壱征監督は静かに、愛ある、優しくも切ない空気で現場を包んで下さいました。 数日泊まりで撮影が続くハードなスケジュールだった為、早く撮影を終わらせ次のシーンにいかなければいけないのですが、 監督は俳優の気持ちに寄り添って、丁寧に現場の空気を作って下さいました。感謝しかありません。

藩の思いを背負って逝かれる『萱野長修公』の最後の瞬間ですから、 監督の現場の空気を作って下さるそのお心遣いに思い切り甘えせて頂き、 ゆっくりと支度をし、窓からじっくり庭を眺め、人生に別れを告げ、切腹をやらせて頂きました。 確か、カメラマンさんお二人と監督、タイムキーパーさんの4人だけで、 静かに奥の和室の一室で、天気もよく爽やかな風が通り抜ける中、切腹をさせて頂きました。

実はもう一箇所、モト冬樹さんとの入浴シーンにも出させて頂いたのですが、 有名な「向瀧」さんでの会津の名湯で、まさに全身で会津を感じさせて頂き嬉しかったです!

最後に。 会津の歴史を知り、伝えて行かなければいけないと思いました。 風土を知り、歴史を知り、そこで暮らしている人を知る。

【なかぬことはならぬものです】 多くを学びました!

『萱野長修公』をやらせて頂けたことに、心より感謝申し上げます。 有難う御座いました。

神保修理役 村上隆文

このたびの会津での撮影は、わたしにとって何にも代えがたい大切な宝物となりました。

撮影前から会津の歴史や文化について学びを深め、実際に現地を訪れることで、その魅力を肌で感じることができました。 中でも、会津武家屋敷を訪れた際の印象は、今も心に深く残っております。 そこで見た展示の一場面を、まさか自分が劇中で演じさせていただけるとは思ってもおらず、 役者としてこの上ない喜びを感じました。 美しい景色と趣のある街並みを歩くなかで、そこに刻まれた歴史の重み、そしてそれを守り受け継いでこられた方々の思いを改めて感じました。 このような貴重な機会をいただきましたこと、心より感謝申し上げます。 田中壱征監督をはじめ、関係者の皆さまに深く御礼申し上げます。

慶応4年2月22日、開明的な視点の持ち主として知られ、 藩主の松平容保から篤く信頼された神保修理公の切腹を演じさせていただきました。 神保修理公の切腹は家老の切腹とは異なり、無念の最期であったと思いを巡らせ芝居に反映させております。 激動の時代の変化の渦に巻き込まれた、不条理と言わざるを得ません。 そして、仲睦まじかった妻の雪子もまた非業の死を遂げています。 どちらにせよ神保修理公の見識は正しく、その後の日ノ本には必要不可欠の人材であった。 この度、神保修理公を知るにあたり強く強く胸を打たれた次第です。 神保修理公が現代の私たちを見たら何と思うのでしょうか。 この文章を書きながらそんな思いを寄せてます。 誠に有難うございました。

◯切腹前日に綴った詩

「一死もとより甘んず。しかれども向後奸邪を得て忠良志しを失わん。すなわち我国の再興は期し難し。君等力を国家に報ゆることに努めよ。真に吾れの願うところなり。生死君に報ず、何ぞ愁うるにたらん。人臣の節義は斃(たお)れてのち休む。遺言す、後世吾れを弔う者、請う岳飛の罪あらざらんことをみよ。」

◯辞世の句

「帰りこん ときぞ母のまちしころ はかなきたより 聞くへかりけり」

神保雪子役 増田悠那

まずはこの素敵な作品に関わる機会を頂いたことに心から感謝します。

キャスティングの際、田中壱征監督から神保雪子役と聞いた時は本当に驚いたと同時に とても嬉しく、責任を持ってこの役を務めたいと感じました。 毎日、雪子さんのシーンを稽古し、その動画を監督に送ってはフィードバックを頂きながら撮影に備えました。 撮影までの期間はずっと、私たちの想像を絶する時代を生きた当時の方々に想いを馳せる毎日で、 実在した方を演じさせていただく重みを痛感する日々でした。

脚本を頂いた際に特に印象的だった演出は、最期のセリフを、前半は會津魂や誇りを、後半は一人の女性として夫・修理への愛を込めて、というものです。 そういった感情が自然と込もるまで、脚本と向き合い、何度も何度も稽古をしました。 撮影時は固い地面の上で正座をした状態でしたが、一度も立ち上がらず撮影し終えたぐらい集中して臨んだのを覚えています。

大切なシーンを任せて頂いたこと、神保雪子という強く素敵な女性を演じさせて頂いたこと、本当に光栄でした。 ご覧いただいた方々に、激動の時代を生きた先人たちの生き様が伝われば幸いです。

西郷千恵子役 山田明奈

田中壱征監督から送られてきた音声メールで「西郷千恵子」と聞いた時、あまりの衝撃で真っ白になりした。 配役が決まったと連絡があった時、私は丁度、友人と食事をとろうとしていました。 私が突然、電話を耳に当てた後「え…」と「ウソ?!」しかいわなくなったので、とにかく心配されたのを覚えています。 どうにか、内容は言えないけど、とても重要な役になった事を伝えた後も、 「頑張ろう…」と呟く以外出来ませんでした。 誰かからの一言で、本当に頭が真っ白になる貴重な体験でした。

田中壱征監督のメソッドワークショップの時、 正直に言うと、西郷千恵子の役になるとは思っていませんでした。 それは監督が設定した年齢や立場から、私ではまだ足りないのではないかと思ったからです。 なので、決まってからは、台詞が自分に馴染むまでひたすら反芻して、 頂いたもの以外の資料を探してとにかく自分の中の西郷千恵子像を見つけるのに必死でした。 一族の長の妻であると言う事、その愛情、情け深さ、責任の重み。 何が見えているのか役の目線を追って、そこに自分の目線を合わせるような作業をひたすらしていました。

そんな準備をして臨んだ撮影。 現場に入って輪組で並ぶ女性たちを目にした時に、 この家族を担っていると言う事、 そして何より、母である事をものすごく強く感じたのを覚えています。 たった一言、二言をこども達に伝える事が、こんなに重いなんて…… 苦しくて苦しくて……自分を律する事がこんなに大変だなんて。 今思い返しても、撮影中の私は、演技をしようと思った記憶がありません。 今の私の中に在る彼女が、そのままそこに居ると思います。 長であり母である、西郷千恵子という女性の愛情が皆様にもどうか伝わりますように。

西郷律子役 武田悦子

戊辰戦争など、会津の歴史の詳しいことについて、 今回のお話があって初めて、心を向けて学ばせていただきました。
同じ日本人として、たった160年ほど前の歴史を、 学生時代にはただの教科書の文字としてしか知らなかったことに、 歯痒さ、情けなさを感じました。

田中壱征監督をはじめ、スタッフも役者も、皆さんが真摯に歴史に向き合われる中、 私自身も会津の地に足を運び、またとない経験をさせていただきありがとうございました。 会津の悲しい歴史を象徴する場面に参加させていただき、同じように子供や孫を持つ女性としても、 演技を超えて、涙無くしては語れない、、、思いを味わいました。 この、映像を通して、後世に語り継ぐべき想いが、少しでも伝われば幸いです。

西郷眉菷子役 八田麻美

会津の武士の妻の妹である西郷眉菷子という役をいただけたこと、 重要なシーンのため伝えないと!というプレッシャーもありましたが、本当に光栄でありがたく思います。

キャスティングいただく前から、会津についての歴史等少しずつ勉強していたのですが、 実はそれまで私は、西郷家の自刃について知りませんでした。 福島県の方は学校でも習うとのことで、福島県出身の友人にも聞き、 私達は習っていないけれど福島の方は皆学んでいる歴史があるんだという事を知りました。 幕末について、会津の人物や状況を勉強するほど、昔習った歴史と結びついて理解でき、「武士魂」等の言葉がよく使われますが、言葉の意味を知る上でも、会津の歴史を学ぶ事って重要だなと感じました。

自刃は、一瞬で逝けるものではなく想像できないくらいの痛みもあるであろう、 恐しく勇気がいるもので、自身はもちろん、目の前で家族達が自刃すること、 しかも赤ちゃんや幼い子供達も一緒に、さらに自分達の手で、、と考えると、涙が止まらなくなってしまいました。 リハーサル含め何度かお芝居を繰り返し、撮影時にはシーンの初めから目が真っ赤の状態になってしまいました。 ただおそらく、武士の妻の妹である西郷眉菷子さんは、当然悔しさや無念さはものすごくあると思いますが、 負の感情ばかりではなく、大変な誇りをもっての決断であり、もっと落ち着いていて、 子供達や周りにもその姿勢をみせるような佇まいだったのではないかと思います。 なので、それを表せ切れなかったなと、、私自身力不足さを感じています。

実際に、会津武家屋敷に伺った際に受けた印象は、 怨念とかそういったマイナスな感覚ではなく、 なんだか力強さというのでしょうか、 プラスのエネルギーの様なものを感じました。 これは中野竹子さんのお墓を訪れた際も思いましたが、 会津の方々がこの人物や歴史を誇りを持って大切に守られてきたという事実も、 とても大きいのではないかと思います。

個人的なお話になりますが、私は岡山県北部の盆地で生まれ育ったのですが、 会津に降りた時、なんだか地元のような景色にすごく落ち着きを感じました。 そして関わっていただいた方皆様温かく、いたる所で地元を大事にされていることも伝わってきて、とても素敵な場所だなと。 そんな会津の魅力や、会津の方々の大切にされている歴史や想いが、たくさんの方に届いて欲しいです。 私もまた改めてゆっくり会津にお伺いして、会津のことをもっと知りたいです。

西郷細布子役  森田真子

私は、父方の故郷が会津ということもあり、 「ひとつに会える街」の撮影に、 何が何でも絶対に参加したいという想いで、キャスティングオーディションに臨みました。 改めて、会津映画の一員として選んでいただけたこと、 心の底から感謝しております。 本当にありがとうございました。

会津での撮影のお話をいただいてからは、戊辰戦争や会津の歴史について一から学び直し、 田中壱征監督のメソッドワークショップでは、どの役でも務められるよう励みました。 ですが、それでもなお納得できることはなく、本当に自分に務まるのか、 頭だけで理解して演じてしまっていないか、何より、作品に傷をつけてしまわないか、不安でいっぱいでした。

キャスティングをしていただき、一から学び直した後に歩いた会津の街は、それまでとはまったく違って見えました。 西郷頼母邸跡地や会津武家屋敷を訪れた際には、胸にこみ上げるものがあり、 再現ではありますが、西郷一族が自刃された場所の前から、なかなか離れることができませんでした。 西郷家の皆さまに恥じることのないよう、またご迷惑をおかけすることのないよう、 真摯に演じさせていただかねばと、改めて覚悟を決める場となりました。

本撮影当日、衣装の着物に袖を通し、実際に武家屋敷に上がらせていただいたときは、 緊張よりも、西郷細布子の当時の想いを想像するだけで涙が止まらず、 こんなにも苦しく、切ないものなのかと胸が締めつけられました。 数テイクを重ねて本撮影が終わったあとは、まるで魂が抜けたように放心してしまい、 役を演じるということが、どれほど重大で責任のあることなのかを、改めて実感いたしました。 田中壱征監督の思い描くものに少しでも近づけていたのか、 作品に傷をつけてしまってはいないか、不安な気持ちもありますが、 西郷細布子という役に、心を込めて向き合い、全うさせていただきました。

今回、過密なスケジュールの中、尽力してくださった監督をはじめ、プロデューサーさま、そして関係者の皆さまに、心より感謝申し上げます。 かつて会津で命をかけて戦った人々の想いを、「ひとつに会える街」を通じて、より多くの方々に知っていただけますよう、心より願っております。

西郷家由布子役 濱田美希

田田中壱征監督の映画作品―― 『ぬくもりの内側』、『風が通り抜ける道』、 そして日頃のワークショップで手がけられる脚本も含め、 私は人々の魂を震わせるような、感動・涙・愛にあふれる数々の作品に触れてきました。

そんな中、日本の歴史において時代が大きく動いた非常に重大な出来事―― 【戊辰戦争】と、その舞台のひとつである【今の会津若松】をテーマに映画を撮るという お話を監督から聞いた瞬間、作品の完成が楽しみでたまらなくなりました。 そして完成した映画を観たお客様が、感動し、 どれほどその心に残った何かを日常に活かし、前向きに生きていくのか―― そんなことを想像すると、自然と心がわくわくし、 「私も何でもやりたい!」と、純粋な気持ちがあふれてきたのです。

田中壱征監督の映画を観て、 実際に「心の支えになった」「生き方を改めて考えるきっかけになった」 そんな声を、周囲から数多く聞いていました。 だからこそ、今回の作品にもそうした力があると確信していました。 監督から「会津MOVIEを撮る」と聞いたその日から、 私は戊辰戦争・明治維新の歴史について学び始めました。 不思議なことに、学びを始めてからというもの、 当時の出来事がまるで導かれるように情報として入ってくるようになったのです。 まるで、ご先祖様から「知りなさい」と背中を押されているような気持ちにさえなりました。 学べば学ぶほど、知れば知るほど、 「もっと早く知っておくべきだった」と痛感することばかりでした。

「日本を守りたい」という想いは同じだったはずなのに、 意見の違いによって、日本人同士が争うことになった―― この歴史を、私はさまざまな角度から見つめ直しました。 そして「同じ過ちを二度と繰り返さないために、今の私たちに何ができるのか?」 「当時の人々から学ぶ、日本人としての、会津の魂を、どのように後世へつないでいくか?」 そんな問いが、日々の暮らしや会話の中でも意識されるようになりました。

私の願いは、この映画を一人でも多くの方々に観ていただき、 日本が大きく動いたあの時代に想いを馳せること、 そして「今の日本」について考えるきっかけとなることです。 それはやがて、世界に向けて―― 一人ひとりが「自分には何ができるのか?」という問いに向き合う、 そんな時間を過ごしていただけるのではないかと、私は信じています。 規模が大きすぎるかもしれませんが、映画にはその力があると感じています。

まだまだ、撮影中の出来事や感じたことはたくさんあり、 本当は書ききれないほどです。 ですが、今回の会津MOVIEに関われたことで、私は歴史に触れ、 そしてこれから映画をご覧になる方々の人生に、 ほんのひとしずくでも何かを届けられることができたなら―― それが私にとって、何よりの喜びであり、心から感謝すべきことです。 誠に、誠に、ありがとうございました。

このたびの会津での撮影は、 わたしにとって何にも代えがたい大切な宝物となりました。

撮影前から会津の歴史や文化について学びを深め、実際に現地を訪れることで、 その魅力を肌で感じることができました。 中でも、会津武家屋敷を訪れた際の印象は、 今も心に深く残っております。 そこで見た展示の一場面を、まさか自分が劇中で演じさせていただけるとは思ってもおらず、 役者としてこの上ない喜びを感じました。 美しい景色と趣のある街並みを歩くなかで、そこに刻まれた歴史の重み、 そしてそれを守り受け継いでこられた方々の思いを改めて感じました。

このような貴重な機会をいただきましたこと、心より感謝申し上げます。 監督をはじめ、関係者の皆さまに深く御礼申し上げます。

この出演がなければ、こんなにも会津に触れることはなかったかもしれません。
歴史、出来事、人々、こんなにも激動の時代があったのかと… 掘り下げれば掘り下げるほど、胸が熱くなったのを思い出します。
田中監督が会津を愛し、信じ、良きものを作ろうとなさった熱意が出演者たちにも伝わったのだと。 また、訪れたい街になりました。

川島信行 役/助監督 大原誠弍

映画『ひとつに会える街』において、川島信行という歴史的な人物を演じ、また助監督として作品づくりに携われたことは、私の人生の中でも特別な経験となりました。

この映画を通して田中壱征監督が描こうとしたのは、単なる史実の再現ではなく、福島・会津という土地に脈々と流れる精神、そしてその精神が今もなお人々の中に生き続けているという、時間を超えた物語であると受け取っています。

私が演じた川島信行は、会津戦争の終盤、会津藩家老・西郷頼母の邸宅での壮絶な出来事に関わった人物として知られています。西郷家では、女子供も含めた一族が自刃し、家の誇りを守ろうとしました。
その中で、死にきれずにいた頼母の娘を前にした川島信行は、敵でありながら「味方だ」と応え、
介錯を務めたと伝えられています。
この話には諸説ありますが、いずれにせよ、このエピソードが象徴するのは「命を奪う」行為ではなく、「尊厳を守る」ための行為であり、人としての深い共感と覚悟だと私は解釈しています。実際に演じ、襖を開けた私の目に飛び込む光景は、勇ましくもあり、同時に、恐ろしくもありました。

死を以ってでも、貫き、守る。

会津という地には「義を重んじ、誠を貫く」という精神が、歴史を通じて深く根付いています。それは武士だけでなく、婦女子、そして庶民にまで行き渡り、会津っ子の生きる姿勢そのものだと思います。

たとえば、中野竹子。
彼女は婦女隊を率い、薙刀を手に戦場に立ちました。武士の娘として育った彼女は、決して戦うことが本望だったわけではないと思います。それでも、自らの信念を貫き、命を落としました。その潔さと誇りの高さには、今を生きる私たちも学ぶべきものがあると痛感します。

西郷千重子は、西郷頼母の妻として、そして一母親として、家族の未来を案じながらも、自ら命を絶ちました。敵軍に辱められるくらいなら、誇り高き死を選ぶ──という決断は、当時の女性たちにとってもどれほどの苦悩と葛藤を伴うものだったのか。

白虎隊の少年たちもまた、純粋な忠義と誤解のなかで自刃という決断を下しました。わずか十代の彼らが、飯盛山で自ら命を絶った背景には、武士の子としての責任感、そして家族や藩への想いだったと、私は捉えています。

そして、田中監督が特に光を当てたかったと思われる萱野権兵衛の存在。
会津藩の家老でありながら、藩の命運を背負い、自ら切腹して責任を取るという覚悟を貫いた人物。藩の存続と民の未来を第一に考え、私情を捨て、誇りある死を選びました。その姿勢は、まさに「忠義とは何か」を現代に問う生きた証そのものであり、会津藩士の精神性を象徴しているのだと思います。

私たちは現代に生き、命をかけて何かを守る、成し遂げるという想いを持つ人は少なくなりました。命をかけた会津の人々の“想い”から、私たちは必ずや何かを学べます。この映画が、見ていただく人々に「今の自分に、自分の誠を問う」企画になる事を、願います。

田中監督は会津若松の歴史を勉強するだけでなく、今を生きる方たちに触れ、言葉を聴き、残らぬ声にも耳を傾け、この作品を仕上げられました。その熱量、責任は、ただの映画監督に収まることなく、時として、我々スタッフやキャストに投げかける言葉は、大名が掛ける激の様に強かったです。その号令の下、私たちは、会津の魂を懸命に捉え、落とし込み、表現することに全力でありました。

その演出には、「会津の想いに忠実である事」に真摯でした。歴史をただ再現するのではなく、また、現代の街を紹介するだけでもなく、「この場所に生きている人が何を大事にし、何を未来に繋いでいこうとしているのか」を大切にした現場でした。現代のナビゲーターが会津の街を歩き、その場所に刻まれた記憶をたどる構成は、半ドキュメンタリー的で、他にはありません。観る人は、過去の人々の声に耳を澄ましながら、自分自身の中にも問いを見出すことになるはずです。

この映画を完成させるために尽力くださった皆様へ、心から感謝を申し上げたいと思います。
特に、渋川会頭、松平保久様、星賢考様、陳賢徳様、室井照平 会津若松市市長──皆様のお力添えがなければ、この映画は生まれませんでした。本当にありがとうございました。

この映画が、誰かの心に灯をともすものになると、信じています。

本撮影の前夜、いつものように川のほとりで薙刀の素振りをしていたら、 「お姉さん、”武道家”の方ですかい?」と見回りの方に声をかけられました。 あの時にぎりしめていた棒は現場でなくしてしまいましたが、元気にしているでしょうか?

この度は、会津でも大変人気のある「中野竹子」役に任じていただき、誠にありがとうございます。 彼女は幕末の戊辰戦争で婦女隊(娘子隊)を率いて会津藩を守るべく闘い、 銃にたおれて戦死した女性です。 今でも会津では彼女を偲ぶ祭りが毎年行われるほど、愛され続けている女性です。

お役を拝命してすぐ、私はドキドキしながら書道家の先生に会いに行き、彼女の遺筆を見てもらいました。 先生は吸い込まれるように見つめて、一言。「ああ。いい時代のひとだね、これは…うらやましい。」 先生によると、中野竹子さんは 「意志が強く、根が素直で男性的。けれど奥深いところでは慈愛にあふれた女性的な一面を持っている」 「正しさを大切にし、その時代の『正しさ』には抗わない」「心のどこかでは自分だけしか感じられない孤独を持っている」 そんな方だそうです。 実際、中野竹子さんは会津の武家に生まれ、婚約者もいるめぐまれた幼少期でしたが、 戊辰戦争のときに「今はそれどころではない」と自ら婚約を断り、会津の人たちと共に、新政府軍と戦う決意をしました。

同じ会津の名高い女性として「新島八重」さんもいらっしゃいますが、 彼女が「銃」などを取り入れた革新的な闘い方を好んだのに対し、 中野竹子さんは「薙刀」など会津藩の伝統的な武術を大切にしています。 どの道であれ、「自分の命より大切なもの」のために人生を賭ける、 そんな生き方のできる会津の女性たちはとてつもなく強い魂を持っていらっしゃると感じます。

令和の今の日本を見て、彼女は何を思うでしょうか? 家族で平和に暮らす姿を見てホッとしながらも、どこか寂しさを感じるのだと思います。 幕末にあって、今の時代にないもの。それが何か、このMOVIEを観ていただく中で皆さんにも感じとっていただけたら嬉しいです。

実は先日、 街中で刃物の傷害事件に出くわしたのですが、 無事に被害者を警察署まで連れていくことができました。 みなが逃げ惑いドアを閉ざす中、一歩踏み出すことができたのは竹子さんのくれた勇気のおかげだと思います。

会津の歴史は、今の日本を形づくるための大切な原点です。 その歴史を伝える一助を担わせていただけたこと、 そして中野竹子さんという強く優しい女性に出会えたこと、 心から感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

映画「ひとつに会える街」の撮影に向け「会津に足を運びなさい。」という田中壱征監督からの言葉を受け  幾度となく会津を訪れる機会がございました。

幾度か訪れる中で 会津の歴史や 先人達から続く会津魂を肌で感じることができました。 私がいただいた役は 戊辰戦争で 婦女隊として戦い抜き命を落とした 中野竹子の母 孝子役でした。 我が子を 戦いにより目の前で亡くし その首を自ら介錯し回収した母の気持ちを想い 幾度も涙が溢れてまいりました。 涙橋を実際に訪れた時には 不思議なぐらいにその情景が思い浮かび武者震いを覚えました。 飯盛山や旧滝沢本陣を訪れた時も同じような感覚でございました。

至るところに歴史の爪痕や魂が残っている地「会津」。 そしてそこに住む方達との温かい一期一会。 このような素晴らしい映画に関わることができたことを とても幸せに思います。 また 関係者の方々に心より感謝申し上げます。 一人でも多くの方に 映画「一つに会える街」をご鑑賞いただけることを願っております。

本作品のお話をいただいた時は深い歴史に携われることをとても嬉しく思い、 同時に改めて考えさせられ胸が痛みました。

実際に会津若松に足を運び、沢山の歴史に触れ、何度も何度も歴史を肌で感じては考えの繰り返しでした。 特に中野優子は若くして言葉では表せないような経験をし、最後まで生き抜いたのでしょう。 撮影期間中はとても苦しく、何か黒いようなものが湧いてきたりと、とにかく苦しかったです。 そんな中野優子を精一杯生きました。 本作品の沢山の思いを感じとると共に会津若松という素晴らしい場所への魅力が皆様に伝わりますと私としてはこの上ない幸せです。 どうぞ最後までご鑑賞ください。

子供の頃、亡くなった祖父から驚くことを聞きました。

「昔親戚の家の土の中から大砲が出てきた」と言うのです。 戦争中に逃げてきた兵士が「家に帰りたいからお金を貸してくれ」と尋ねて来たので お金を貸すと大砲を置いて帰ってしまい、困って埋めて隠したそうです。 しばらくして「うちには大砲が埋まっているんだぞ」と話していたらしいのですが 誰も信じず、ある時掘り起こしたら本当に大砲が出てきて 「あの人が言っていたことは本当だったんだ」となったのだそうです。 祖父は「その大砲はどこかの博物館に飾られている」と言っていました。 もしこの話が本当ならば祖父の出身地からおそらく戊辰戦争だろうと思いましたが、 親戚と言っても祖父の親戚の為私はお会いしたこともなく、戦争を 経験したことがない私は何度この話を聞いても信じませんでした。 祖父から話を聞いていた時は信じられないながらも、もし本当の話ならば敵方にお金を貸す方も借りに来た方も命がけ。 危険を犯して敵方にお金を借りに来るほど帰りたかった兵士が無事に家に辿り着けていたらよいなと思っていました。

時代劇に出演したくて役者を志した私はもちろん戊辰戦争や白虎隊のことは知っていましたが この映画の話をお聞きしてから戊辰戦争を深く調べなおし、 私が知らなかった数々の壮絶な史実があったことを知りました。 会津若松を訪れ飯盛山から会津若松市街を見渡した時、 まだ10代の白虎隊の若者たちがこの風景を見て最後に何を想ったのだろう。 誰の顔を思う浮かべたの だろう。どんなに家に帰りたかっただろうと胸が締め付けられました。

飯盛山を訪れた帰り道、 麓にある「白虎隊記念館」に入りました。 記念館の中に新聞記事が添えられた土蔵の床下から発見された大砲が展示されていました。 親戚を辿り唯一祖父の親戚を知っている人に確認したところこの大砲が祖父が言っていた大砲であることが分かりました。 会津若松を訪れて以降、大砲を埋めて隠したことで、その大砲がより多くの人を傷つけることを止めることが出来て良かったと思う様になりました。

私が頂いた役は亡くなった白虎隊の隊士の叔母役です。 女性が自分の感情や思いをそのまま言葉として発することが許されなかった時代、 甥が亡くなっても大声で泣くことも、悲しみを言葉にすることもできなかった 女性の一言一言に込めた悲しみや辛さがご覧頂いた方に少しでも伝わっていたら嬉しく思います。

そして最後に、史実を時代劇を通し伝えたいと願う私にとって今回の出演は先祖に引き寄せられた縁の様に感じます。

「ひとつに会える街」では井上丘隅の役を頂きました。 会津という地域に生きる事が如何に大変であったか、これからまず考え役に挑む事にしました。 井上丘隅という難役を頂いた事は、演技者としての挑戦でもあり、役者冥利に尽きる経験でした。 井上は次女の神保雪子守る為、 その説得に応る場面はとても辛く悲しい物でした。 最早演技では無く、一人の人間として話し涙した感が有りました。 こんなに厳しい時代に生きた誇り高き人々がいた事を観客の方々にお分かり頂けたらと思います。 この様な素晴らしい作品に出演出来た事に、田中壱征監督を始めプロデューサーや関係者各位の皆様に心より感謝致します。 この度は有難うございました。

本映画にて神保雪子の実母であり、井上家の奥方である井上とめ役を務めさせ ていただきました。

この度は、とても貴重なご縁と機会を賜りましたこと、心から感謝いたします。誠にありがとう ございます。 本映画のキャスティング指名は、田中壱征監督より直接対面で伺いました。 まさか私が演じさ せていただけるとは夢にも思っておりませんでしたので、 発表の瞬間は感極まって涙があふ れ出たことを、今でも鮮明に覚えております。

井上とめさんは、歴史上に実在した人物であり、会津藩と運命を共にすることを選んだ一人 の高潔な女性です。 その心情を演じさせていただけることは、とても光栄である一方で、 会津 の皆様をはじめ映像をご覧になる方々に、短いシーンの中でどれほど深いものを伝えられるか とてつもない緊張感も生まれた瞬間でした。

本撮影まで 3 週間という限られた期間の中で、まずは直接会津の地を肌で感じるため、 人生 初となる会津訪問をさせていただきました。 1 泊 2 日という短い時間でしたが、戊辰戦争ゆかりの地をできるだけ多く巡らせていただきま した。 初日の晴天の下、中野竹子さんのお墓があるお寺へお参りし、只見線の会津坂下駅か ら市内へ。 斎藤一さんのお墓への参拝、鶴ヶ城(西郷家跡地も含む)の見学を経て、 夜は東山温泉の源泉かけ流しのお宿で一夜を過ごしました。

翌日は雨模様の中、会津武家屋敷、飯盛山を巡りました。 会津では、土地の持つ特別なエネルギーを感じただけでなく、 鶴ヶ城で偶然参加できたボラン ティアツアーでの貴重な知識、 バスの運転手さんの心温まるお声がけ、飲食店での店員さん との会話など 会津にお住まいの皆様のお人柄に触れられたことが、 役作りの上でとても貴重な体験となりました。

また、会津に関する歴史書や小説、人物伝を何冊も拝読し、 以前放映されたドラマのシーン なども視聴しながら、 「どんな思いで、どんな覚悟で、愛娘である雪を追い返したのか。 母として、一人の女性とし て、井上家の奥方として、 一家で会津藩と運命を共にした心境とは。死への恐怖を感じながら も、 会津への愛と尊厳、誇り、会津魂でそれを乗り越えて自決する——その情感とは何だったのか」この問いとひたすら向き合い、演じることに取り組みました。

いよいよ本撮影日。 夏の蒸し暑い日に東京の武家屋敷にて、家族で娘と対話するシーンと白装束での自決シーン、 この 2 つの重要な場面を撮影いたしました。 今回の脚本と演出では、短いセリフの中にどれだけ情感を込められるか、そして死んだことの ない人間が、自らの意思で高潔に自決して死にゆく様をどう演じるか これがとても重要だと感じておりました。 役者はシナリオを先に読むので結末を知っています。 けれども演じているときは、結末を知らない「リアルなその時の感情と表情、しぐさ」を表現しなければなりません。 そしていつも思うのは、本番は一度きり、まさに一期一会だということです。

限られた撮影時間の中で演出を素直に受け入れ、撮影に全身全霊で臨む。 会津の地に生きた人々の愛と誇りと哀しみが込められた魂の記録として、 少しでも多くの人に伝わるように演じる その思いで 2 つのシーンを演じさせていただきました。 撮影を無事終了したとき、「大切なものに命懸けで臨むこと、 現代という自由で素晴らしい世界での人生を一つ一つ丁寧に向き合おう」と 深く感じたことは、私にとってとても貴重な体験となっております。

この会津映画は、さまざまなエピソードをちりばめたオムニバス作品として、 過去と現在がクロスする物語になっております。 ぜひ、本作品をじっくりご鑑賞いただいて、 映画に携わってくださった会津の方々と、田中監督、スタッフ、 俳優の私たちが心を込めて紡いだこの作品が、 皆様の心に何かを残し、会津の 精神、魂を次の世代へと繋ぐ一助となれば、幸いです。

井上チカ役 髙木七海

この撮影のお話を、田中壱征監督から、伺った時、ぜひとも深く関わらせていただきたいと思いました。

なぜなら福島県という場所は私の人生の分岐点に深く関係する街だったからです。
しかし実はこの会津の街のさらに深い歴史や人々の思いを私はまだ知らずにいました。

そして脚本をいただき、実際に田中監督の演出や思いの部分に触れた時に私の知っている温かく強い会津の皆さんの血には深く悲しい歴史と、それに屈することも臆すること無く立ち向かった魂が強く、深く受け継がれているのだということに実際に心が震える感覚を覚えました。

撮影が始まり、初めて制作にも入らせていただく中で、この脚本や歴史や思いの部分を作品として生み出していくことが本当にデリケートで難しく厳しく時に過酷で、そしてこんなにも有り難いことであると本当に感じました。
何ひとつ壊さず残さずに伝えること、伝え切ることへの使命を強く感じたからです。
そんな中、会津の街の方々が本当に温かく迎えてくださり…
さらにその使命感は強くなっていきました。

不思議なことに自分の出演シーンの撮影の際には、驚くほど冷静になりました。ある意味それは『覚悟』だったと思います。
撮影前に学ぶために訪れた中野竹子の祀られた墓碑の前で勝手に涙が止まらなくなったこと、眠れなくなり大雨にも構わず魂が叫ぶかのように走ったこと、それでも役を演じようと形作ってしまう自分との葛藤…
撮影前日はそんなものが走馬灯の様に巡っていたのですが、撮影が始まると自分で驚くほど脳内が静かだったのを思い出します。

全てが終わった時に再び感情の入り混じった涙が止まらなくなりました。

こんな作品に携わらせていただけたことに本当に心から深く感謝しています。そしてこの経験を通して感じた大和魂を心に深く刻んで生きてゆきたいと思います。
そしてご覧くださる皆様にも同じ様に今を生きる力になることを強く願います。

最後になりましたが、ご協力いただきました皆様、素晴らしいチームの皆さま、そしてこの様な経験と機会をくださった田中監督、本当に有難うございます。

この度は「ひとつに会える街」のご鑑賞ありがとうございます。

僕はこれまで、幕末作品は新選組の視点で描かれた物(新政府軍は悪役)にしか出演経験がありませんでした。 今回、田中壱征監督からご指名を頂戴して新政府軍兵士を演じると言うことで、 改めて歴史を反対側から見て勉強し直してみました。 新政府軍にも幕府軍にも、薩摩藩にも会津藩にも互いに正義があり信条があり、 そのどちらもが日本を良くしたかった、立て直したかったのだと本当の意味で理解することができた気がします。

中野竹子のシーンでは、自らの命をかけ何をもってしても敵を殲滅せねばならない軍人としての自分と、 後方から銃で撃つとは何事か?女を銃で撃つとは何事か!?と思う武士としての自分との葛藤、 そして敵であるはずの者の家族愛に敬意を感じる様を、監督からの指示により「敵に頭を下げる」行為で表現するに至りました。 歴史に描かれることのないたった1人の兵士にもこんなストーリーがあるのだと少しでも思っていただけたら嬉しいです。

この作品がたくさんの方の目に留まり、会津の歴史と素晴らしさが1人でも多くの方に伝わることを願います。

 私は薩摩の人間です。 縁あって、「名もなき新政府軍の侍」を演じ、 中野竹子、神保雪子の生き様を、役を通して見届けました。 なぜ私が、この機会をいただけたのか不思議なものですが、 あの日の、松平家、院内御廟の展墓の折に、会津の土となり永眠される皆皆様より、 自身が「この地で動く事」への許しを得たかのような体験は忘れられません。 墓所を眼前にした時の、あの木漏れ日.清冽な風、葉擦れの厳粛な、しかし穏やかな音。 それは、「いずれ忘れ去らるる運命、それでも、より先の、より多くの者へ…」と、 松平一族と、それを支えた人々の、静、かつ強烈な御意志が宿る、願いのように感じられました。

「皆さん、会津について、知っていますか?」・・・田中壱征監督の問い掛けから始まった、 この度のご縁。史実を丁寧に作品に込める、会津のために動く、そういった監督の意思が宿った今作の中に登場する人物、役どころに、私は、「役者として作品に出演出来る」という事とは、また違った有り難みを感じていました。

私は、会津の為に何が出来るのか、今の時代に会津を振り返る、その意義は。 先人たちをしのぶ事の大切さ、この「ひとつに会える街」から少しでも感じていただけたなら幸いです。

これまでの役者人生の中で様々な役を演じてきましたが、 その中でも僕にとって特別な存在となりました。

今までの物語上の架空のキャラクターとは違い、日本の歴史の中で、 確実にそこに存在していた人物を演じるということは恐怖もありました。 篠田儀三郎の想いを、白虎隊の想いを表現し、伝えきれるのだろうか?と不安もありました。 しかし、勉強をしていく過程で僕にしかできない形で篠田儀三郎の持つ会津魂を全身で表現させてもらおう、 後世に伝えるためにやり切るんだという想いが強くなりました。

そうして迎えた撮影当日でしたが、最初のテイクでは不完全燃焼な形となりました。 想いが全く足りていませんでした。時間を空けて、再挑戦させていただかかとになりました。白虎隊というものを、篠田儀三郎という人間をもう一度深く想い、考える時間をいただきました。

そして迎えた再撮影でしたが、役者人生において一番の素敵な時間を過ごさせてもらいました。さっきまで晴れていた空が一転、雷雨になったんです。魂の叫びと同時に空から返事が返ってきたんです。きっと本当の篠田儀三郎はこんなものではないはず。しかし、ほんの少しでも想いを表現できたのではないかと思えました。喉は完全に枯れ、翌日高熱となったのですが、その時にもまた演じさせてもらえてよかったなぁと思えました。

篠田儀三郎という一人の強くかっこよく大きな人間の想い、魂は今でも僕の中に存在しています。少しでもそういった部分が皆様に届いていたら僕は幸せです。そう遠くない過去に、間違い無く存在していた白虎隊の魂を現代を生きる僕たちはきっと忘れてはいけないと思います。彼らの生きた道の先を僕たちは生きているんです。そう思ったらなんだか以前よりも少し、強く生きられそうです。

今回のムービーでは、会津若松で起こった壮絶な戦い、歴史を深堀していきました。

田中壱征監督から、白虎隊士役に任命して頂いた時、私は素晴らしい作品に出演できるという喜びと同時に、 しっかり演じきらなければならないというプレッシャー、両方の気持ちがありました。 そこで、本撮影に至るまでに、白虎隊や会津若松での戦について学び、 この戦いで散っていった彼等の思いを知るために、 田中監督をはじめ、様々な人々から会津若松の歴史についてお聞きしました。 また、隊士の心構えを少しでも知るために、剣道に通い、刀の持ち方、所作についても学びました。

2024年の夏、いよいよ本撮影に入りました。 撮影では実際に衣装に袖を通した時、改めて実感が湧きました。 自分が今まで学び、体験したことを実際に出し切る場面です。山の中で、気温や天気も著しく変わっていき、とても大変な撮影になりました。 自分達は、白虎隊士の思いを宿し、撮影するため、食事もとらず、撮影が終わるまで、必死に向き合いました。

田中監督の脚本、演出は白虎隊として若くして散っていった彼等の熱い思いが込み上げてくるもので、 何度も何度も、撮影をしました。 田中監督は厳しくも、全力で作品に向き合っており、自分達もその思いに応えようと必死でした。 この撮影を通して、俳優として大切なものを学ばせていただきました。

2025年7月4日、会津若松にて、いよいよ試写会が始まります。 会津若松の人々の思い、田中監督の情熱、私達俳優陣の全力、全てを皆様と共に見届けていきたいです。 どうか、会津若松MOVIE「ひとつに会える街」をよろしくお願いいたします。

白虎隊 母親役 小林 未世子

はじめに、
会津若松の深い歴史の映画に携わらせて頂き、有難うございます。

私は白虎隊 安藤 藤三郎の母・ミサ役を頂きました。

そこに至るまでに田中監督は2023年の秋から2024年3月の撮影開始の間、会津若松に何度も足を運ばれ会津の悲しい歴史を学ばれて、私達 俳優陣に熱く会津の史実を何度も話して下さいました。

そして【ひとつに会える街】のオーディションが始まった時、未だ行った事が無い福島県会津若松市に身を置き少しでも 何か感じるモノが有れば….の思いで、車で愛知県から先ずは中野竹子のお墓参りに法界寺に行きました。
お墓を守られてる方とたまたまお話しができ館内に入れて頂きました。
実際の薙刀を間近で見る事ができ、竹子と娘子隊が最後の夜に寝た部屋にも入れて頂きました。

私は重い空気の薄暗い畳の部屋の真ん中で、しばらく一人で居ました。訳もなく胸が苦しくなりました。
きっと演技稽古で 竹子の最期や自刃も練習してきたので、一瞬で色んなものが押し寄せてきたのだと思います。

そんな重い気持ちを抱いたまま、
会津藩校日新館➖旧滝沢本陣 ➖飯盛山(白虎隊自刃の地)➖会津武家屋敷➖鶴ヶ城➖泪橋(柳橋)➖中野竹子殉節脾へ行きました。

ひとつ ひとつその場所で感じ胸に詰め込みました。
私は この時代を生きた人の会津の魂を、絶対に演じて映したい気持ちでいっぱいになりました。

白虎隊の息子が自刃した事を知らされた母役の撮影の際は、撮影の待ち時間、屋敷の縁側から山をずっと見つめて息子の安否を祈ってました。
その時の私は私では無かったと思います。飯盛山の白虎隊が自刃した場所から見下ろした時の鶴ヶ城。
白虎隊のお墓の数…..今でも思い出すだけで涙が溢れてきます。
私の役は歴史上の文からは存在感の無い母ですが、自分の命よりも大切な息子の命を案じて苦しみと闘ってきた一人として皆様にお伝え出来てるでしょうか?

たった160年前の事。

この作品は演者が、実際に足を運び 学んできた者が殆どだそうです。
この作品を通して、会津若松の歴史に関心を持って頂き、沢山の方が会津き訪れて下さるととても嬉しいです 。
最後に 私は田中壱征監督のお陰で、会津に関心を持てました。
この経験は私の財産の一つになりました。

有難うございました。

この度は、会津MOVIE「ひとつに会える街」におきまして、 白虎隊の最後に自害を遂げた子供の母親を演じさせて頂きました吉崎真呂と申します。

こちらの配役をいただいた際、改めて会津若松の事、歴史の事、 そして会津若松のみならず、その時代背景やそこに至るまでのお話を 田中壱征監督から直接ご指導いただきました。 こちらの母親の役を監督よりお話頂いた時、 私自身も同じ年頃の子供を育てる母として、 子供たちの覚悟、そして家族を守る大人たちが不在になった街を自分たちが 守り抜こうとしたその魂を伝えていただき、 母親としてもその子供たちの勇姿を見送る覚悟を決め、 子供達と永遠の別れになるかも知れない場所へと見送るような苦しみが、 自分にはできるのだろうかと苦しみと不安でいっぱいでした。

現代社会では考えることができない、幼いまだ中学生位の子供たちが、 自分たちの街を守り、弟や妹、母親、など残された家族を守るという事。 そして自分たちの地域を守ろうとする覚悟だけでなく、自害することや、 周りの人たちを早く楽にさせてあげるためにと刀を振りかざず・・・・ その気持ちがどれだけ苦しかったか、私にはとても難しく、想像することに苦しみを感じました。 沢山の映像や文章などで事前に勉強していっても、 計り知れないその気持ちをどのように表現したら良いのかと思いながら撮影に挑みました。

いざ撮影現場に到着いたしましたら、ただそこに居るだけでもなぜ重苦しくて涙が溢れ、 どのように表現していいのか、「ただただ苦しい…」そのような感情にも陥りました。 そして田中監督の現場ならではですが、 今回は、先に台本や脚本を頂くのではなく、 現場の空気を見て、監督がMACパソコンを開き、 インスピレーションで降りてきた言葉を伝えるかのようにセリフを書き上げ、 撮影に挑む台本をいただきました。 その場でパソコンで作り上げた台本を受け取ってみると、 軽く読み合わせをしているつもりでもとても苦しくて、 言葉にならない思いと覚悟を決めた母親と言う強い女性を演じ、 弟役の子もいましたので、まだあどけない言葉で兄の死を理解できない弟の前で 気丈に振る舞いながらも、母親としての言葉一つ一つを噛み締めながら表現させて頂きました。

思い出したり、このように言葉にするだけでも苦しくなる事もありますが、 母として自分の子供の勇気ある行動、そして相手を思いやる気持ちなどは、 今でも会津若松で暮らす方々の心の奥底に宿っていると感じています。

そしてこの会津若松の映画をご覧いただける皆様、美しい世界だけを見るのではなく、 今、この景色や、こうして命ある方々を残してくれた先代の方々への思いを馳せながら、 守り抜こうとしてくれた方々の気持ちをしっかりと現実として受け止め、 そこに暮らしていた方々の愛のある勇姿を知っていただけたらと思っております。この会津MOVIEを、1人ひとりの心に届けられたら嬉しく思います。

お恥ずかしながら、わたしは会津や白虎隊のことは殆ど知りませんでした。

本当に申し訳ないことですが、田中壱征監督から、 中野竹子や神保雪子のことをはじめて教わったくらいです。 そこから、図書館で会津や戊辰戦争の本、中野竹子・神保雪子関連の本を勉強させて頂きました。 しかし、本やYouTubeの動画だけの勉強では、 どうしても、その当時の臨場感や、そこに生きた方々の思いはなかなか感じられませんでした。 なので、会津の土地に実際に訪れ、肌で感じてみないと、その時を生きた方々の思いを、役者として、代弁することは難しいなと思いました。

実際に会津に向い、会津若松駅に到着し、駅や街中の至る所に貼ってある「什の掟」「家訓十五ヶ条」「あいづっ子宣言」で、会津の心に触れ、 制作スタッフとして、撮影許可を頂くために会津の方と沢山お話させていただく中で、 会津の方々の、愛すべき頑固さというか、意志の強さと優しさを知ることができました。 そして、会津武家屋敷や旧滝沢本陣、飯盛山、鶴ヶ城、法界寺など、大切なそれぞれの場所で、 なんとも言葉にし難い、空気感を味わいました。

わたし個人が感じたことで、誤解なきよう伝わって欲しい部分ですが、 街の中には、まだ癒えていない部分もある。でもその生々しさや、過去への思いを持ちながら、 今を懸命に生きている、会津の方々のエネルギーを大きく感じました。 なので、わたしが作品づくりに参加することで、強く、明るく、優しい会津の、より良い未来、発展に繋がるお手伝いが出来ればいいなと思いました。

わたしが演じさせて頂いた”岡村すま子”という人物は、 娘子軍でも特に目立った存在でもなく、名前が本に少し載っている位の情報しか、得られませんでした。 しかし会津の街…武家屋敷や旧滝沢本陣、飯盛山や法界寺で感じた空気感、 鶴ヶ城で19人の白虎隊の方々の顔を実際に見たことが大きく役作りに繋がりました。

岡村すま子という人物像は、資料上あまり分からないことが多かったですが、 すま子が、一体どんな気持ちで、娘子軍に加わると意志を表明し、一人の女として戦場で戦い、 白虎隊・安達藤三郎の自死を、彼の母みさ子に走って伝えに行っただろう。 伝えに行く時は、一刻も早く伝えようと思っただろう。 でもすま子自身も戦いの中で気を張っていて、走っている時こそ気が動転しているけれど、きっと母の顔を見れば、冷静にしっかりと、自死という事実を、彼女に全て伝えるだろう。彼女の悲しい気持ちは痛いほど伝わるけれど、まだ戦いの中の意識の女なら、伝えることに責任を全うし、共感はあまり見せないだろう、といろいろな想像をして、それを俳優として、表現させて頂きました。

鑑賞されるみなさまが、会津の過去・現在を知り、そして会津の沢山の魅力を知り、会津に何度も訪れてくださること、 この作品が、会津の、会津の方々の更なる未来への発展に繋がることを、心より、お祈りしています。

最初に会津若松を訪れたのは2024年6月17日のことでした。

この映画に携わるにあたり、まず向かったのは飯盛山。 事前に図書館でいくつかの本を読み、調べ物のために国立図書館に初めて行き、 ほんの少しだけ会津についてを知ってからでした。ほんの少しだけ。 初めての会津で身が引き締まる思いの中、長いエスカレーターを昇りました。 美しい深緑と会津若松市をのぞむ展望。この地で起こった痛ましい歴史の跡。 そのコントラストに圧倒された思い出があります。震えるような思いが胸に込み上げ、 あぁ、この街についての作品に携わるのはどんな事になるのだろう、という期待と恐怖が入り交じったのが昨日のことの様に思い出されます。

その後、会津若松では2泊3日ほどの滞在を2回しました。 その都度、心情が変わって行きました。 どのように変わったかと述べるには私の語彙量ではとても追いつきません。 それほどに深いこの街の過去、現在。 撮影前にその地に思いを馳せるという経験は初めてのことでした。 そんな機会を与えてくれたこの作品に携わった全ての方に感謝します。

こんなにたくさんの経験をさせて頂いた作品は初めてで、完成までの1年間色々な想いを胸に、大切に大切に携わらせていただきました。 本当にたくさんの方々の想いがこもったこの、「ひとつに会える街」 私にとって初めて尽くしだったこの作品。何度も涙を流し、何度も感動しながら携わらせていただいたこの作品。 少しでも多くの人にご覧になって頂きたい思いでいっぱいです。 この拙い文章に目を通してくださった「あなた」にも。 本当にありがとうございます。 愛をこめて。

娘子隊役 上鶴令

 私は娘子隊に選ばれました。娘子隊がどんな思いで新政府軍と戦ったのかを知るため、 私は戊辰戦争の歴史を学び直し、その中で、藩主と領民を守るため義に生きるという会津魂を知りました。 その思いでもって娘子隊は殿(松平容保公)と照姫を守ったのだとわかったのです。

命を懸けた娘子隊の皆様に納得していただける演技をしなくてはという思いに駆られ、 会津の各地に赴きました。中野竹子さんのお墓、涙橋(柳橋)、涙橋近くの竹子さんの戦死場所、 会津武家屋敷、飯盛山の白虎隊のお墓、鶴ヶ城。どこも感じるものが強く、訪れたことで本撮影に堂々と挑めると自信に繋がりました。

娘子隊の出陣前のシーン撮影時には熱く込み上げるものがあり、涙目になっていたのを覚えています。また、竹子が撃たれた時のシーンでは、セリフはありませんでしたが、何とも言えぬ虚無感と悲しみでいっぱいになりました。ご鑑賞される皆様には、会津戊辰戦争で会津魂を守るため命を懸けて戦った人々の思いに感謝して、 今、会津に生きているんだという誇りを胸にご覧いただけますと幸いでございます。

今回初めて田中監督の作品に娘子隊の一員として出演させて頂きました田中杏佳です。

メソッドワークショップにて会津若松で起こった事象を初めて知り、 会津若松の歴史や時代背景、会津若松に伝わる教え等を独自でも学んでいたところ 監督に今回の作品の娘子隊役に選んで頂きました。 直前まで集中メソッドにて監督にご指導頂き本撮影に挑みました。

本撮影時に監督が書いて下さった両面に会津若松についてより詳細な情報が びっしりと詰まったB4サイズ位の大きい紙を配られました。 今思い返せばその紙を撮影が始まる前に読んだ事で娘子隊という難しい役どころにより入り込む事が出来たんだと思います。 娘子隊の撮影時は殆どの方が初対面でしたがすぐに打ち解けられました。 そして監督が振って下さった台詞を元に娘子隊全員で演技の擦り合わせをし撮影に挑み、 ほぼ撮り直しなく撮影出来ました。 初対面でここまで団結出来たのは一人一人が娘子隊として同じ志と 仲間意識を持てていたからこそだと思います。

私の撮影日程は1日でしたが撮影までに学んだ事や現場で感じた空気感等その全てが 私の糧になりましたし、役者として大きく成長出来ました。 これからも娘子隊の皆さんの思いを胸に生きて行こうと思います。 本当にありがとうございました。

 会津の女がどう生きたのか。 田中壱征監督にキャスティングして頂き、その日、私は会津の女になりました。 その時代、その土地で生きた女性の姿や考え方を辿ることで、 より日本を、私たちの歴史を意識する機会となったことに感謝いたします。

日常では、ただ自分のことで懸命でいるために、日本の歴史を深く考えずに生きています。 でも、たった150年前の出来事なのに、あまりにも生活環境や生きる目的、価値観の違いを感じる中で、 それでも何か通じるところがあり、共感する不思議な気持ちがあるのです。 自分よりも、国を、秩序を、名誉を優先する気持ちは、 私たちの中に、遺伝子の中にきっと組み込まれています。共感するということは、 現代社会においても、忘れてはいけない、大事なことなのだろうと思うのです。

この映画を観る方々の、身体の芯にある記憶を呼び起こし、 現在社会に欠けている、忘れそうな大事なものを、この映画の中で見つけて頂ければ幸いです。

「ひとつに会える街」のキャスティングに至るまで、 メソッドWSで会津若松の歴史を学びながら、 稽古を重ねていきました。 何の役になるか分からない中、中野竹子や西郷家のシーンの稽古を続け、 全員が会津魂を実感していたと思います。

そんな中、私は婦女隊にキャスティングしていただきました。 出演した婦女隊のシーンは、女性の強さと覚悟が感じられるシーンだと思います。 「女でも戦うんだ」という強い意志を感じていただけたら嬉しいです。 これから死にに行くようなものなので、きっととても怖いはずだけど、 臆さず立ち上がる姿がこれぞ会津魂だと思います。 同じ婦女隊メンバーと目を合わせながら撮影したので、 1人ではないという気持ちも撮影しながら芽生えました。

この作品を観て、日本にはこんなにも強い女性たちがいたこと、こんなにも悲しい歴史があったことを知って欲しいです。そして、今もなお歴史が残っている会津若松に遊びに来てほしいです。

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挿入歌【ありがとう会津】 天音智愛巫  

「ひとつに会える街」会津Movieの中で【ありがとう会津】の挿入歌を歌わせていただきました、天音智愛巫(ちゃみー)です。 ご縁をいただき、今日ここで皆様とご一緒に鑑賞することができましたことを、心から感謝いたします。

正直お伝えすると、私は田中壱征監督からお話をいただくまでは、福島にはご縁がありませんでした。 ですが、監督からお話を伺う中で、会津にとても親近感が沸きました。 監督は何度も何度も福島に足を運び、現地で学び得たことや福島への思い、会津への思いを聞かせてくださいました。 足を運んでの監督の実体験や脚本への気持ち、 俳優さんへの要望などをお聞きする中で、私も会津の歴史に興味を持ち、 学ばせていただく中で、思ったことがあります。

パワースポットという”場所”や”言葉”がありますが、 もしかしたら日本の歴史において、この街は”要”とも言える 大切な場所なのではないかと思うようになりました。 実際に会津に足を運び、鶴ヶ城、御薬園、武家屋敷、さざえ堂、 野口英世記念館や、白虎隊記念館、東山温泉、会津の街、磐梯山を仰ぎ見たり、 バスに乗ったり、七日町通りで買い物をしたり、お墓巡り、様々な場所を ひとりで巡っているうちに、何とも言えない気持ちになるような複雑な気持ちに なるような言葉を失うような時間も何度かありました。

国を守るため、仲間を守るため、家族を守るため、大事な人や絆を守るため、 会津を守るため、武士道精神を守るため、他にも理由は何であれ、 自分のためではなく、誰かのために懸命に命や力を振り絞り行使して、この世から去っていく… そんな先人の思いに触れて、涙なくしては見れないそんな場所もありました。 監督の脚本をいただいて、お勉強させていただく中で、 そういう方達の思いを疑似体験しながら、深く哀しみ、苦しみ、切なさや、絆を感じる経験もしました。

それとは反対に、温かい気持ちになることも何度もありました。 哀しみ深い、歴史深い街ではあるんですけれども、現代の会津に住まわれる方々は、 “三度泣き”にあるように人情が熱い方達、優しい方達が多いということも、実際に足を運んでみてわかりました。 ホテルに泊まった時や末廣酒造に見学に行かせていただいた時、食事をした数々のお店、 お土産を買うとき、荷物が多くなり観光所に荷物を預けることになった時、 道を尋ねた時、お店の人との会話、他にもたくさん、心からのおもてなしをいただきました。

私が七日町の街並みの写真を、道路越しに撮影していると、 会津の車の運転手の方は、写真に写らないように、 車を停車して手前で待っていてくださったこともありました。 “あったかい”といいう言葉がピッタリ、優しさをあちらこちらで感じることがありました。 私は関東に住んでいるので、比較するわけではないですが、素直にそう感じました。 会津の皆様に、会津の街に自然に、感謝の言葉”ありがとう”と言う気持ちがありますし、 先人の想い、見えない存在になっても、きっと日本も見守ってくださっている… そんな風に思うようになりました。

会津の街に触れて、日本をこれまで存続できたこと、これからの平和への思いや願いを新たに感じさせていただけたこと、 挿入歌のお話をいただいて、会津の様子や歴史を思い出しながら気持ちを込めて歌詞を書かせていただきました。 そして、感謝の気持ちで歌わせていただきました。 さまざまな意味合いから、”ありがとう”と言う気持ちでいっぱいです。 ご縁をありがとうございます。 本当にありがとうございます。